じゅぁきのディープゾーン

NEWSからみた、一般的な生き方をしてる疑問点などを提起したり、逆に考えた結果など。 ちなみに文章になるとかたくなるのは、年齢的なもの?(笑)。

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マニュアル化された自由に振りまわされてない?

このところ引継ぎ作業に追われて、コールも何故か多くて忙しい日々ですが、何気に充実した感じを味わっているこの頃、みなさまはどうお過ごしでしょうか?(笑)。

さて、今日は私の価値観を中心にまわりを見た場合を書いてみようと思います。
というのも、もう10年くらい前になりますが、アマチュアで作詞をしておりました。
その時に某巨大掲示板にて投稿された作詞を評価しておりました。

作詞に関してはとりあえずおいておいて、気になったのはあまりに想像力がないなと感じた事と、”人に伝える事を無視”した作品が多かったことです。
よくありふれた一日で安心感のある歌詞だからいいんだとか、自分の気持ちをありったけぶつければいいんだとか、わかる人にわかればいいんだ、という意見は根強くて、まぁそれも一理ありますが、プロのような歌詞を書きたいと思うならば、やっぱりそれではいけないわけです。

そこで私は作詞をする時の注意点として
1.歌詞に主人公がいて、その物語を切り取るか、全体を書くかにする
2.言葉を並べるだけでなく、きちんと伝えるための順序を考える
細かくはいろいろありますが、これが基本だと言いました。

その上で主人公=自分でもいいのです。
ただ、自分の気持ちや思った事をダラダラ書かれていても伝わりません。
背景も見えませんよ、友達でもなんでもないし(笑)。
そういった事がわかる人は上達し、わからない人は上達しませんでした。

う~ん、前置きが長くなりましたが、何が言いたいかといえば、作詞だってルールはあるという事です。
ルールをぶっ壊していいのは、ルールを熟知した人だけができる高等技術あり、基本もなく、これから始めてみようという人はダメだという事です。
これは一般社会でもいえる事で、社会を形成する上でルールの一つは法律です。
また、伝統というのも一つのルールでしょう。
この中で法律は遵守することが”前提”で破っていいものではないですが、伝統は場合によっては破らないといけない場合があります。
しかし、その場合は伝統をきちんと理解、遵守した事がある人がすべきことであり、外野がとやかく言うものではないはずです。

ところが、最近は何かと自由という言葉が勝手な価値観で使われ始め、気がつけば本来の意味とはかけ離れた「同音異義語」並に違う扱いをされていると思います。
といっても、本来の使い方という表現はおかしいかもしれません。
何故なら自由は”定義されないもの”であり、心が感じるものを指すからです。

ところが最近は自由を使うケースがいくつか定着しつつあり、しかもそれって都合よすぎじゃね?
って、感じの使われたが多く見受けられると感じました。
作詞でも当然そういった使い方がされており、若いこの意識が垣間見られた気がします。

具体的な例をあげてみましょう。
1.ルールを破る事が”自由”
2.人に迷惑かけなければ(と勝手な解釈で)何をしても責任を問われない自由
3.夢や希望を持つことの自由
これらが私が気がついた”自由の定義”です。

1.に関しては論外です。
ルールはルールであり、守るのが基本であり、もしルールが間違っているならば修正、もしくは削除・追加する事が正しい手順だと思います。
校則を守らない生徒が罰せられるとか律せられるとは当たり前です。
もし破った場合でも、それが修正・削除・追加を目的とし、きちんとした手順が取れない場合の抗議ならともかく、そうではないのがみえみえです。
これは自由でも何でもなく、ただ自分がしたいようにしたい”欲望のまま”です。

2.は一面が正しいのは確かです。
例えば想像で人を殺したところで罪にはならないし、ひとりでふらっと旅に出かけても未成年じゃなきゃ問題はありません。
だからといって、都合よく迷惑をかけてないといいきれないものまでかけてないと主張して自由を気取ってる場合は、普通見苦しいわけです。
しかし、いかにも自分の意見を言ってるようで、実はうけうりだったり、どこかのセリフを盗用しただけだったりしているわけです。
価値観の違いを認め、自分なりに消化した意見だったならば、まだわかります。
しかし、そこまで深く考えたこともないのに「自由」をいいたがっている人が多く見受けられます。

3.も一面正しいです。
持つこと自体を否定はできません。これは自由です、確かに。
しかし、かなえるためには何でもしていいというものではありません。
挫折をし、それでもかなえるために努力することが悪いとはいいません。
でも、それでも、あるところで見切りをつける必要に迫られる時に、無条件であきらめないというのはおかしい。
人は生きることを同時に生活があるわけで、生活が成り立たないのに追いかけていいというものではない。
もし、人から協力を得られて続けられるならいいのですが、そうではない場合は引く勇気がないといけない。
その覚悟がない者に夢を追いかける自由はありません。

よく作詞で言われるのは、自由に心を解き放ちとか、かなわない夢はないとか、どういうわけか簡単にいっちゃう人が多く、自由を使う人の歌詞の共通点は「感情の垂れ流し」が非常に多く見られました。
それでは読んだ人に共感をもたれません。

自由というのは、常に覚悟と責任がともなうものであり、それをいえるというのは資格とでもいうのか、資質かもしれませんが、それなりに生きてきた者が言う事です。
それをあたかも知ったかで自由を使い、自分の利益のみで使う。
これじゃぁマニュアル化されていると言われてもしかたないと思いませんか?
もっとも、そう共感する人が減ってきているので、私の方が少数派なのかもしれませんが・・・。

自由というものは孤独と闘い、自分と戦い、それに打ち勝った者が得るひとつの心の称号だと思います。
しかし、いつの世も若いものには麻薬のように扱われる。
だからこそ”大人”は危険を教える必要がある。
ところが大人が麻薬に犯される今では誰もそういった事をいいません。

簡単に「自由」というものを言えてしまう、しかも私的に間違った解釈で使われている「自由」という言葉がかわいそうでしかたありません。
これはマスコミや歌詞などの問題もあると思いますが、きちんと国語の教育していないことも原因のいったんではないでしょうか?

まぁ、責任転嫁では多少ありますが、それでも伝える事を大切にしてない歌詞同様に、自由という言葉で自分をごまかすのはもうやめて欲しいなと思うこの頃です。
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  1. 2008/03/19(水) 16:31:33|
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