じゅぁきのディープゾーン

NEWSからみた、一般的な生き方をしてる疑問点などを提起したり、逆に考えた結果など。 ちなみに文章になるとかたくなるのは、年齢的なもの?(笑)。

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数学はコミュニケーションツール

新年一発目はとりあえず持論を書いてみます(笑)。

最近はあまり耳にしなくなった、「数学は社会に出て使わない」という発想。
もしかして勉強の理解が深まった?
と、思ったら違うようです。
あまり大人が言うと、子供が”必要ない”と刷り込まれてしまうため蓋をしたようです。
はぁ・・・。

学校の勉強というのは成績と社会性の二種類があると思うのですが、実際どうなんでしょうか?
親がかかわり過ぎたり、過去にはPTAが変な権力持ったり、有力者(政治家など)が学校に過干渉したりしてるので、もしかして学校というものをきちんと定義しないといけない時代になりつつあるのかもしれません。

さて、成績方面で言えば、「何故勉強するの?」と子供って聞いてくると思うんですが、それに答えられる人って意外に少ないんですよね。
これって、自分で考えた答えが正解であり、私が正解ではないんです。
つまり、どう子供に伝えるかをきちっと答えてあげて欲しいだけなんです。
だから、人の意見も参考にしたいけど、答えてもらえない。
で、じゃ自分はどうなん?って聞かれて答えると批判ばかりしたがる。
特に過去、ネットの某巨大掲示板の教育で一時期話したけど、ただ評論したい人の集まりで参考意見が聞けなかった。
2chではないので、あしからず^^;;。

では私は数学は何の役に立つのか?
学生の頃から考えていました。
おかしい? おかしいかな? おかしいか・・・。
確か高校くらいかな?

数学って何に役立つのか疑問でした。
というのも、自分が数学好きなもので、これってこのまま勉強して何に役立つのか不思議に感じたのです。
はい、変わり者です(笑)。
自分でもそう思っていましたから^^;;。

これがなかなか見つからない答えでした。
当たり前で、学生時代に答えがみつかるなら小学生で理解できますからね^^;;。
実際に社会にでて、数年たった時にふと気がつきました。
というのも、会う人、会う人、「理系人間」と私を評します。
また、自分でも「あぁ、なんて自分は理系なんだろう」と思うこともしばしば(笑)。

そこで、いろいろな出会いから考えるに、きっと自分に数学好きと理系人間とは関連性があるのではないだろうか?
一般的に言われている理系人間と自分は言われ方、ニュアンスとでもいうのかが違うような気がしたんです。

そもそも数学の勉強における方法というのは「暗記」が一般的です。
確かにそれは有用で、かつ試験には役立ちます。
しかし、それが通用するのはせいぜい中学までで、それ以降の数学では暗記だけではできません。
では、どうすればよいのか?

1.基本規則である”決定事項”は暗記
2.決定事項を元に論理展開する「方法」のコツを覚える
3.問題の本質を見抜き、1.2.を駆使して答えを導きだす

この方法で数学を勉強すれば驚くほど成績は伸びると思います。
例えば掛け算、割り算って本来は必要がない事をご存知の人いますか?
そもそも+、-だけで整数はいいんです。
じゃ、なんで×、÷が必要になったか?
ここに歴史があり、納得すれば次回からは本質を見抜ける力がつくわけです。

答えを書いておきますが、考えてから反転させて合わせてみてください

足し算というのは、数をたしていく。
例えば 1+1=2 2+2=4 というようになっています。
この場合、足し算が一回ですからいいのですが、もっとたす場合などに不便です。
例「八百屋に買い物に行き、おさらに二つのってるりんごを5つ買いました。さてリンゴは何個?」
普通に私達は”2×5=10”としますが、どうしてこうなっているのでしょうか?
これは「2+2+2+2+2=10」と同様なんです。
つまり、同じ数の繰り返し足すのを便宜的に表すのに”×”を使います。

逆に割り算は引いて行くわけです。
例「10個のリンゴを3人で食べます。あまりはいくつでしょうか?」
普通は”10÷3=3...1”という事から1つ余りです。
これって実は「10-3-3-3=1」という意味なんです。

×も÷も便宜上の記号だったにすぎません。
しかし、これをルールとして用いないと数学の発展がなかったから”四則演算”となった。


これを元に数字がわからない場合にaやbを使って方程式になり、いろいろ数学(この場合は幾何学と代数学)が発展しました。
こういった事を次々繰り返していくと、ものごとの現象には必ず本質があり、その本質を使えば答えが見えてくることを学びます。

さらに、数学では絶対的に決まった法則が存在します。ユークリッド幾何学は5原則。
そこに待ったをかけたガウスの曲面理論など。
このあたりは人間模様があり、歴史物語としても面白いのですが、話がそれるので割愛。

つまり規則があり、それを駆使して回答を見つける。その過程で本質を見抜く。
これが数学の勉強であり、かつ、数学を学ぶ意味になります。

では、これがなぜコミュニケーションツールなのでしょうか?
人の心は記号化できませんよね?
確かに記号化できないと私も思いますし、数学好きな人でもさすがにいないと思いますが、中には数学的でない人の心が嫌いな人はいます。私ではありませんが(笑)。

そもそも日本語に限らず、言葉と言うのは約束された文字と並びがあり、お互いにそれを理解したうえで話すから相手に意思が通じます。
日本語と英語ではこの伝え方が違うから、二つの規則と文字の並び(単語も熟語も含めて)を覚えます。
よって、日本人は日本語を理解してる前提のため、共通認識にたち理解しあってるわけです。
逆に、その規則を逆手にとって、勘違いやハプニングを演出してるのがお笑いです。

ただ、言葉や文字と言うのは記号ですからある程度共通化して同じ意味で使います。
しかし、実際には同じ言葉で話しても通じる人、通じない人がいます。
ここが数学との違いです。
ならば、言葉の持ち本質ではなく、相手の思考の本質をしればより理解できると思うわけです。

私は数学を「コミュニケーションツール」と言って、決してコミュケーション上達とはいいません。
ツールは使いこなせるほど便利なものですが、使えない場合はただのゴミです。
よって、数学を勉強してツールを使いこなすために学校に行くわけです。
その使い方を学ぶ、これは成績ではなく社会性の勉強となります。

これは相手を思いやる気持ち、理解しようとする気持ち、受け入れようとする気持ちなどにも通じ、決して数学的だから人として欠けているわけではないのです。
物事の本質を見極め、相手の立場を想像し、その時に的確な判断をし、結果よい方向に進む。
そのための勉強であるのが数学だと私は考えます。

実際にこのツールを駆使して今に至る自分の人生は決して間違ってなかったと思いますし、未来を予想して、選択肢を作り、「自分で決定」してきてます。
だから後悔はほとんどありませんし、特に社会人になってからは一回だけで、ほとんどが学生時代に失敗をした事で、じゃっかん後悔しております。
まぁ、若気の至りなんですけどね^^;;。

長くなってしまいましたが、説明不足だったり、言葉足らずで理解しにくいかもしれませんが、意図を汲み取っていただければ幸いです。
そして、会話を楽しむには相手を理解してあげることが第一歩です。
それをしなくてもできる人はいますが、仕事ではそうはいきません。

以上、持論でした^^/
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  1. 2008/01/08(火) 11:45:28|
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  4. コメント:3
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コメント

私の場合は純粋な「知の悦び」だったような気がします

 私は数学が好きでしたが、恐らく他の方達とはアプローチが違っており、他の教科も含めて純粋な知識欲が引き金になってのことだった様な気がします。
 公式は秘本的にほとんど覚えませんでした。
 ただ教科書に書いてあった公式を導き出す過程に非常に強い興味を感じ、授業中なども先生の話をほとんど聞かずに数式の変化と何故そうなるかに夢中になっていました。
 テストの際などは、公式を覚えていないので自分の考え出した方法を駆使して何とか正解に辿り着くのですが、それが実に楽しくパズルを解くような悦びと快感を感じたのが記憶に残っています。
(もちろんテスト問題全部を決められた時間内に解くことは出来ず、時間切れになるのですが...。)
 その方法で先生の作り出した設問の間違いを発見したときなどは、小躍りしました。

 中学生の後半くらいから天文分野にはまり込み、流星の二点観測を友人と共にやり、地球に到達する前の太陽系の中での軌道計算をするようになり、学校で習っていなかった球面三角関数や行列式・微積分を独学で学びそれなりの答えを手にしたときに、数学だけで自己完結する論理の世界からではない自然科学を解くための数学の世界を知り、なんだか感動を覚えたこともありました。

 今思うと私にとっての数学は、論理的な思考力を鍛えるための学問で、それは今の自分の血肉になっており、引き金は「知の悦び」だったように思います。
 子供に「何故、数学を学ばなければならないのか?」と聞かれたら、「だって解るって面白いだろ!」と答えてあげたいと思っています。

 この記事の趣旨から外れる完全な余談になってしまい、失礼しました。
 余談ついでで恐縮ですが、過去記事のTBを送らせていただきます。
  1. 2008/01/08(火) 13:30:01 |
  2. URL |
  3. 山本大成 #E6psF8zg
  4. [ 編集]

TBが上手くいかないようです

 TBが上手くいかないようなので、URLを貼らせていただきます。
(そこまでするほどの関連記事ではないのですが...。)

学研「科学」と「学習」。私の『知る悦び』の原点!
http://blog.so-net.ne.jp/kawaraya-taisei/2007-06-06

幼児教育について考える!(英語教育:鬼嫁と冷戦中)
http://blog.so-net.ne.jp/kawaraya-taisei/2007-02-10
  1. 2008/01/08(火) 13:34:17 |
  2. URL |
  3. 山本大成 #E6psF8zg
  4. [ 編集]

大成さんへ!

コメントありがとうございます。

知識欲というのは限られた人しか実感ができないという事に気がついて以来、あまり言わないようになりました。
そもそも大成さんのようにほっといても数学に興味を持つ人は、子供に説明できる「論理的思考」を持っています。

しかし論理的思考だけで社会は渡れません。
というか、感情をどう論理的に扱うか?
これが大事なんだと思うんですね。

だからツールという表現を使いました^^/。

>テストの際などは、公式を覚えていないので自分の考え出した方法を駆使して何とか正解に辿り着くのですが、それが実に楽しくパズルを解くような悦びと快感を感じたのが記憶に残っています。
あっ同じことしてますね^^;;。
私も三角関数で基本式以外は覚えずに、うらがみ一杯に公式から公式を導いて時間切れ・・・。
先生に呆れられた記憶があります(笑)。

私はどちらかというと天体や物理には興味をもたずにいました。
学生を卒業してから物理に興味を持ちましたが、まぁ雑学程度で終わりました。
ただ、数学をやっていて得したと思った瞬間は、相手に伝える努力が少なくてすむなと思ったときです。
相手の言語・思考を読み取れれば伝えやすいですから。

>引き金は「知の悦び」だった
う~ん、これを実感できるように持って行く方法は独自にみつけないといけない点が子育ての難しいところですよね?
私はたまたま一冊の本からでした。
しかし、自分の子供が果たしてその本を読んで同じに感じるかはわかりません。
子供にあった方法論を考える必要をひしひしと感じているこの頃です(笑)。
  1. 2008/01/08(火) 16:06:25 |
  2. URL |
  3. じゅぁき #-
  4. [ 編集]

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