じゅぁきのディープゾーン

NEWSからみた、一般的な生き方をしてる疑問点などを提起したり、逆に考えた結果など。 ちなみに文章になるとかたくなるのは、年齢的なもの?(笑)。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告|
  3. トラックバック(-)|
  4. コメント(-)

今昔、イジメ比較考

【コラム・断】ことなかれ主義の悪

この際だからあえて言う。
イジメは昔っからある!

当たり前すぎる事だけど、どうも今しかみてない人が多い。
現代がとりまく環境とか、親子のあり方とか、学校、教師、地域・・・。
確かにいろんな要素は考えてみればでてくる。

そういった中で、昔からあるからなくならないという人もいる。
では、こういう人は”あきらめろ”というのだろうか?
弱肉強食が人の理(ことわり)なのだから、問題に取り組んでも無駄だというのであろうか?

あまりに局所的な発想しかしてないような気がする。
そもそもイジメの構造は昔と違うように思う。
形を変え、姿を変え、一言「イジメ」という言葉でくくってしまう。

そもそもイジメをされてる方に、イジメはなくならないからごめん、イジメられて下さいとでもいいたいのであろうか?

私も”られる方”も”する方”もあった。
もっともする方の時は意識はなく、その相手はもとイジメっ子だ。
だから、子供の価値観で天秤にかけたら「イジメられたからイジメていい」という発想があった。
が、すぐにやめた。
相手から「お前がやってる事は俺がしてたとの変わらない」
という指摘のおかげだ。
実際にはそのものに対し、暴力はふるっておらず、一般的な罪の量というものが存在すれば、自分はやられっぱなしに近い(笑)。
けど、言われて気がついた事は、その通りであり、虚しいと感じたからだ。

よって、する方としてはほとんど経験がないに等しいが、一時期確かにあった。

じゃ、られる方という人の気持ちがわかるかといえば、昔のイジメならわかったと思うが、今のイジメの構図が違うため、正直いってわからない。

昔は価値観の違いというよりも、「中途半端な常識」から逸脱するとイジメられる。
背が異常に高く感じる、逆もそう、太ってる、話が通じないなど。
比較的明確な”見える”ものでのイジメがほとんどだった。
けど、理不尽である事に変わりはない。

で、今のイジメは現場は知らないので、私が知りえる限りの情報をまとめると、単純に価値観の共有ができないものから、価値観に乗り遅れたものというなんとも意味不明な理由を感じる。

だから、誰がイジメられ、誰がイジメてるのか子供同士でもわからなくなり、常に緊張状態を強いられているように思う。
自分が”する方”だったはずが、いつのまにか”される方”に変わり、そこから逃げたくてまた”する方”になる。

つまり、気がつけばイジメをしてるのか、されてるのか常に状況把握を求められ、信じていた友達からあっさり裏切られる。
性格や見た目ではないのだ。

そうだなぁ・・・。あえて言うなら
場の空気に支配
されてるとでも言うのだろうか?

確かに昔からあるイジメ、今もなくならないイジメ。
これらを考えて比較すると、イジメてるいわゆる「イジメっ子」はいなくなり、常に流動してしまう。
その流動が固まると、対象が決まり、激しいイジメに変質し自殺まで追い込んでしまう。

この発想は正しいかどうかはわからない。
自分が知りえた情報を整理し、いろんな方面で自己検討した結果であるので、的を射てない可能性が高い。

でも、現状認識における足がかりだと思っている。

さて、別の方面で昔と今を比べてみよう。
いじめっ子という言葉は昔は確かに存在し、そのいじめっ子の中でルールがあった。
つるまない、怪我をさせない、節度を持つというものであった。
もっともこれは私の時代よりも前であり、いじめっ子の家庭環境を加味した分析である。
実際に、いじめっ子は、他校の生徒に自分のいじめる対象がイジメに合うとなんと助けるのである。

この時代は、いじめっ子が学校や家庭での理不尽な要求のはけ口だったということである。
そして評論家は未だにこの頃の幻想を抱いてる人もいる。

私の頃は、つるむけど嫌悪を持っていた。
一人でできない情けなさは心にありつつ、それを隠す感情の高まりをイジメに向ける。
多少の暴力はあるものの、やっぱり怪我は基本的にさせない。
痣程度であり、それも頻繁ではない。
そういった節度は多少なりともあった。

では今は?
明らかに問題になるケースは節度がない。
エスカレートしすぎばかりだ。
しかし、表面化してるからであり、裏ではその一歩手前のイジメは横行してるのではないだろうか?

先ほども書いたが、いじめっ子という存在はいない。流動的なイジメは常に行われていると考えた方がいい。

これは教師がダメなだけでなく、やっぱり親の環境が大きいといわざるを得ない。
そもそも、親が子供に簡単に愚痴をこぼし、社会をぼやき、マスコミに踊らされ、”情報処理”してないのである。
だから子供は価値観を育てる事ができない。
いや、正確に言うならば”自分だけの価値観”がもてない。
誰かの情報で自分の都合で取捨選択するまでできればいい方だ。
それすら人の価値基準を借りてしまう。
だから全て他人の責任なのだ。

親・社会・マスコミ
に責任転嫁が簡単に出来てしまう状況を作り出し、与えられる簡単さに満足してしまう。
そんな親を見て育ってる子供に、伝えるべき”人間”のあり方なんて伝わらないと思う。

だから子供も楽な、もっと楽なということで、しかも悪事の意識が希薄なままの価値観を「持ってしまう」のだろう。
みんながやってるじゃんなどの言動は、この考え方が定着してると思っている。

では、どうすればよいのか?
一番簡単なのは、日本在住の人を全て集団催眠で共通の価値観を持たせる事である。
「集団で一人を攻撃するのは”悪”である」
と・・・。
出来ないけどね^^;;。

現実的にはやっぱり教育の場で、これを徹底して教える事だろう。
攻撃対象が仮に悪い場合でも”集団で”攻撃してはいけない。
これだけで随分とイジメは現象していくのではないだろうか?

今の大人が共有できない以上、次の世代に教え込む必要を感じる。
その上で現状のイジメに対し、学校も常に「存在」してるとして行動すべき事柄であろう。

おそらく、この記事ですら一面を切り取ったに過ぎないかもしれない。
的を射ていれば、少なくとも我が子にはイジメる側になって欲しくないと伝える事は可能と信じたい。
果たしてその結果やいかに!?
スポンサーサイト


  1. 2007/10/11(木) 11:36:53|
  2. 教育|
  3. トラックバック(-)|
  4. コメント:3
<<ネットは道具である | ホーム | 盲点の発想だった>>

コメント

今も昔もそんなに構図は変わらないのでは?

 先達て、私のBLOGにコメントいただきましてありがとうございました。

 私の見聞する限り、いじめの構造は昔とそれほど変わっていないのではないでしょうか?
(今私は43歳ですが、少なくとも私の体験した頃と構造自体にさほどの違いがないように感じています)

 ただ、違うと感じるのは「子供が弱くなってしまっている」と言うこと。
 つい先達て、男の子が未だにブリーフをはいているとしてトランクスをはくようになった多数派の男の子達から集団ではやし立てられるという話を、友人の子供の話として聞かされました。
 現在の定義ではこれはいじめの一種で、弱い子供ならばいじめられた結果として同調化圧力を感じトランクスをはくようになったり、買ってもらえない場合ははやし立てられるのが嫌で何らかの精神症になる可能性があります。
 でもそんなことは昔からあったことで、昔も同じスカートをはいていた女の子や、靴下が嫌いでいつも裸足で過ごしていた子供(実は私です)などが、私の時代でも同じ状況になっていました。(確信犯の特定のいじめっ子は、私の周りでは当時も居ませんでした)
 でもそんな事は、される側がどうとも思っていなければ、全然いじめでもなんでもなく普通に学校に通って過ごしただけのことでした。
(気に入らない同級生の持ち物を隠したり、隠されたりとか、上履きや椅子に画鋲を隠しておくなんて手口も、当時からあった方法で私自身被害者側で経験もしました。:場の空気に支配されてのことで、当時も首謀者はやはり居ませんでした)

 幼児期に親が囲い込みすぎたりせず、周りに兄弟や同世代の子供がいて日常的に同世代間の対人関係を経験してさえいれば(少子化で兄弟や近所の子供が減ったのが問題)、自分で乗り越えねばならない問題として乗り越えていっただけのことでした。
(当然、「逃げる」や「かわす」「媚び諂う」と言う対処法を取るケースもありました)

 また、もう一点上げるとすれば「いじめの撲滅」政策が、いじめの陰湿化を招いているように思います。
 「いじめをしてはいけないと」言うのが、直接行動を牽制したのは良いのですが、結果としては「無視」とか「仲間はずれ」などのより表面化しにくい形や、陰に隠れてのいじめなどへ変貌してしまう要因になってしまっていると感じています。
(大人社会でも気に入らない人間を無視することは良くある話で、大人より情緒的に生きている子供にそれをしないように強いることは至難の業でしょう?)

 じゅぁきさんの仰るように、子供に行動規範を理屈の上で教えることはとても大切なことだと思いますが、私のBLOGの記事で書いたように、本質的には子供の同年代間での接触経験の物理的な不足が招いたもので、抜本的には大人のあまり介在しない「子供同士の接触体験を経験する場」をどうやって作っていくかだと思っています。

 そして、私自身としては批評だけ刷る評論家でありたくはありませんので、子供達がある年齢になったとき自分でボランティアを買って出てでもそんな場所を作らなくてはならないとの覚悟をしています。
(学校がそんな場所であれば、あえてそんなことをしなくても良いのですが、果たして私の地元ではどんな状況なのでしょうか?)
  1. 2007/11/08(木) 14:46:22 |
  2. URL |
  3. 山本大成 #E6psF8zg
  4. [ 編集]

トラックバックが上手くいかないようです

 前に、コメントをいただいた記事のトラックバックを送ろうとしましたが上手くいかなかったようですので、改めてURLを貼らせていただきます。

 なお、私自身他人の子で多少の現場を踏みましたが自分の子では経験が無く、まだ定見を持つところまで行っていません。
 意見交換が出来れば幸いだと思っています。

いじめは必要悪?
http://blog.so-net.ne.jp/kawaraya-taisei/2006-11-01
  1. 2007/11/08(木) 14:54:53 |
  2. URL |
  3. 山本大成 #E6psF8zg
  4. [ 編集]

山本大成さん、コメントありがとうございます

せっかくですので、山本大成さんところに書き込みます!
  1. 2007/11/09(金) 14:47:49 |
  2. URL |
  3. じゅぁき #-
  4. [ 編集]

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

| ホーム |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。