じゅぁきのディープゾーン

NEWSからみた、一般的な生き方をしてる疑問点などを提起したり、逆に考えた結果など。 ちなみに文章になるとかたくなるのは、年齢的なもの?(笑)。

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マニュアル化された自由に振りまわされてない?

このところ引継ぎ作業に追われて、コールも何故か多くて忙しい日々ですが、何気に充実した感じを味わっているこの頃、みなさまはどうお過ごしでしょうか?(笑)。

さて、今日は私の価値観を中心にまわりを見た場合を書いてみようと思います。
というのも、もう10年くらい前になりますが、アマチュアで作詞をしておりました。
その時に某巨大掲示板にて投稿された作詞を評価しておりました。

作詞に関してはとりあえずおいておいて、気になったのはあまりに想像力がないなと感じた事と、”人に伝える事を無視”した作品が多かったことです。
よくありふれた一日で安心感のある歌詞だからいいんだとか、自分の気持ちをありったけぶつければいいんだとか、わかる人にわかればいいんだ、という意見は根強くて、まぁそれも一理ありますが、プロのような歌詞を書きたいと思うならば、やっぱりそれではいけないわけです。

そこで私は作詞をする時の注意点として
1.歌詞に主人公がいて、その物語を切り取るか、全体を書くかにする
2.言葉を並べるだけでなく、きちんと伝えるための順序を考える
細かくはいろいろありますが、これが基本だと言いました。

その上で主人公=自分でもいいのです。
ただ、自分の気持ちや思った事をダラダラ書かれていても伝わりません。
背景も見えませんよ、友達でもなんでもないし(笑)。
そういった事がわかる人は上達し、わからない人は上達しませんでした。

う~ん、前置きが長くなりましたが、何が言いたいかといえば、作詞だってルールはあるという事です。
ルールをぶっ壊していいのは、ルールを熟知した人だけができる高等技術あり、基本もなく、これから始めてみようという人はダメだという事です。
これは一般社会でもいえる事で、社会を形成する上でルールの一つは法律です。
また、伝統というのも一つのルールでしょう。
この中で法律は遵守することが”前提”で破っていいものではないですが、伝統は場合によっては破らないといけない場合があります。
しかし、その場合は伝統をきちんと理解、遵守した事がある人がすべきことであり、外野がとやかく言うものではないはずです。

ところが、最近は何かと自由という言葉が勝手な価値観で使われ始め、気がつけば本来の意味とはかけ離れた「同音異義語」並に違う扱いをされていると思います。
といっても、本来の使い方という表現はおかしいかもしれません。
何故なら自由は”定義されないもの”であり、心が感じるものを指すからです。

ところが最近は自由を使うケースがいくつか定着しつつあり、しかもそれって都合よすぎじゃね?
って、感じの使われたが多く見受けられると感じました。
作詞でも当然そういった使い方がされており、若いこの意識が垣間見られた気がします。

具体的な例をあげてみましょう。
1.ルールを破る事が”自由”
2.人に迷惑かけなければ(と勝手な解釈で)何をしても責任を問われない自由
3.夢や希望を持つことの自由
これらが私が気がついた”自由の定義”です。

1.に関しては論外です。
ルールはルールであり、守るのが基本であり、もしルールが間違っているならば修正、もしくは削除・追加する事が正しい手順だと思います。
校則を守らない生徒が罰せられるとか律せられるとは当たり前です。
もし破った場合でも、それが修正・削除・追加を目的とし、きちんとした手順が取れない場合の抗議ならともかく、そうではないのがみえみえです。
これは自由でも何でもなく、ただ自分がしたいようにしたい”欲望のまま”です。

2.は一面が正しいのは確かです。
例えば想像で人を殺したところで罪にはならないし、ひとりでふらっと旅に出かけても未成年じゃなきゃ問題はありません。
だからといって、都合よく迷惑をかけてないといいきれないものまでかけてないと主張して自由を気取ってる場合は、普通見苦しいわけです。
しかし、いかにも自分の意見を言ってるようで、実はうけうりだったり、どこかのセリフを盗用しただけだったりしているわけです。
価値観の違いを認め、自分なりに消化した意見だったならば、まだわかります。
しかし、そこまで深く考えたこともないのに「自由」をいいたがっている人が多く見受けられます。

3.も一面正しいです。
持つこと自体を否定はできません。これは自由です、確かに。
しかし、かなえるためには何でもしていいというものではありません。
挫折をし、それでもかなえるために努力することが悪いとはいいません。
でも、それでも、あるところで見切りをつける必要に迫られる時に、無条件であきらめないというのはおかしい。
人は生きることを同時に生活があるわけで、生活が成り立たないのに追いかけていいというものではない。
もし、人から協力を得られて続けられるならいいのですが、そうではない場合は引く勇気がないといけない。
その覚悟がない者に夢を追いかける自由はありません。

よく作詞で言われるのは、自由に心を解き放ちとか、かなわない夢はないとか、どういうわけか簡単にいっちゃう人が多く、自由を使う人の歌詞の共通点は「感情の垂れ流し」が非常に多く見られました。
それでは読んだ人に共感をもたれません。

自由というのは、常に覚悟と責任がともなうものであり、それをいえるというのは資格とでもいうのか、資質かもしれませんが、それなりに生きてきた者が言う事です。
それをあたかも知ったかで自由を使い、自分の利益のみで使う。
これじゃぁマニュアル化されていると言われてもしかたないと思いませんか?
もっとも、そう共感する人が減ってきているので、私の方が少数派なのかもしれませんが・・・。

自由というものは孤独と闘い、自分と戦い、それに打ち勝った者が得るひとつの心の称号だと思います。
しかし、いつの世も若いものには麻薬のように扱われる。
だからこそ”大人”は危険を教える必要がある。
ところが大人が麻薬に犯される今では誰もそういった事をいいません。

簡単に「自由」というものを言えてしまう、しかも私的に間違った解釈で使われている「自由」という言葉がかわいそうでしかたありません。
これはマスコミや歌詞などの問題もあると思いますが、きちんと国語の教育していないことも原因のいったんではないでしょうか?

まぁ、責任転嫁では多少ありますが、それでも伝える事を大切にしてない歌詞同様に、自由という言葉で自分をごまかすのはもうやめて欲しいなと思うこの頃です。

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  1. 2008/03/19(水) 16:31:33|
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言いたい事はわかりますねぇ(笑)

【コラム・断】エレベーターは誰のため?

バリアフリーも進み、確かにベビーカーを担ぐ駅も減ってきて、お父さんは大変助かっております(笑)。
意外に若い時なら気が付かない事が、身にしみてくるこの頃ですから、自分ひとりの時でも、疲れを感じるとつい乗ってしまうエレベーター。

ただ、一応まわりをみて、子供連れ・お年寄り・障害者の方がいないことを確認してという小心者ですけどね^^;;。

しかしこれを行政の責任するのにはいささか賛成できない。
そもそも、こういった躾けの部類は親の責任じゃないかな?
もっとも、最近は何でも親じゃないという”言い訳”がまかり通り、どうにもできないあきらめ感が好きなようで、行政とか国とかに責任を転嫁しやすい傾向は嫌いだ。

確かに官僚の不祥事、政治家への不信は私にもある。
そもそも障害者自立支援法案(というなの嘘法案)を反対したくらいだ。
だからといって、普通の暮らしの中でちょとした思いやりでどうにでもなる事まで転嫁する気にはなれない。

問題点を無理に大きくして、自分の責任ではないと主張する風潮はなんとかならないだろうか?

それから気になったのはPriority seatにまでケチをつける人がいることだ。
いや、正確に言えばケチではなく正論すぎるくらい正論なのだが、それには”意識改革”をする必要が前提なので、「今は絶対無理」なのであって、将来に向けた戦略のもとの目標なのだ。

どうしてシルバーシートからPriority seatになったのかといえば、いろんな意見を集約して障害者・高齢者だけでなく妊婦なども入れて欲しいという要望があったから。
そして、一度全席Priority seatしたら誰も譲らなくなり、結局作る事にしたという”悲しい現実”があったからだ。

本来、なくていいものがどうして必要とされているのかをきちんとおさえないと、それは空論と呼ぶ。
私だって内心Priority seatは失くすべきだと思う。
が、それをしたら、あまりに日本人が”思いやり”がない事が露見したのだ。
逆にルールとして狭い範囲で設定すると、不思議な事に従うのだ。
もう躾け云々より国民性と思ったほうが、現実だろう。

ちょっと脱線すると、高速の車椅子マークのところにとめられるように、健常者が平気で身障者ステッカーを購入しているという事をご存知だろうか?
取材なのでどこまで本当かわからない(やらせとはいわないが・・・)が、現実に私は高速で障害者がいない車でステッカーが張ってあり、そ知らぬ顔でとめてトイレに行っている人を数度見てる。

お前じろじろ見てるのかよ!
といわれると見てます^^;;。
だって明らかにおかしい車があったりしますから。
例えばベンツでステッカーがある場合は、疑いますね。
ただ、ベンツは車内が見えませんが、人の気配ってわかるじゃないですか?
わざと側を通っていくと大抵気配ありません。

基本スポーツカー系を障害者は好みません。
乗り降りに向いてないからです。
セブンでもステッカーはってなくて止まっていて、明らかに一人なのに平気な顔してる40代の人とかはむかつきます。

ほんの小さな思いやりかもしれませんが、何故わざわざ高速の車椅子マークがあるか。
そこを考えて欲しいし、一度関節固定プロテクターなどで経験するといいかもしれない。
個人的に松葉杖で生活した時期があるので、ほんとトイレまでの距離が長いと普通の時の何倍も苦労することを知ってます。

だから、高速ではマークのないところに当たり前ですがとめております。
でもPriority seatには座ります(笑)。
もしシートが必要な人がきたら譲るし、そのときにはわざわざ声をかけて親切の押し売りをしません。
無言で席を立って譲ります。
相手をみて、話しかけた方がよさそうな場合は「どうぞ」といいますが。

逆にお年寄りに多いのですが、あたかもPriority seatは自分の席と勘違いしたとんでも君もいました。
平気で「どけ」や「若いやろ」と言って強引な人もいます。
あたしゃ、その元気があるから譲らないって言った事あったりしますけど^^;;。

お互いに思いやりがあれば、それとなくできる事は多いはずです。
特に身体的な障害は擬似体験できる器具は作れるわけで、そういったものを授業に取り入れてみて欲しいところです。
なんせ想像力がないですから、実体験しないとわからない人増えてるようですし。

もし行政という事を考えるならば道徳の時に疑似体験したり、実際に障害をお持ちの方の話を聞くなどは非常に有効と思えますが、いかがですか?

  1. 2008/02/28(木) 16:17:59|
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数学はコミュニケーションツール

新年一発目はとりあえず持論を書いてみます(笑)。

最近はあまり耳にしなくなった、「数学は社会に出て使わない」という発想。
もしかして勉強の理解が深まった?
と、思ったら違うようです。
あまり大人が言うと、子供が”必要ない”と刷り込まれてしまうため蓋をしたようです。
はぁ・・・。

学校の勉強というのは成績と社会性の二種類があると思うのですが、実際どうなんでしょうか?
親がかかわり過ぎたり、過去にはPTAが変な権力持ったり、有力者(政治家など)が学校に過干渉したりしてるので、もしかして学校というものをきちんと定義しないといけない時代になりつつあるのかもしれません。

さて、成績方面で言えば、「何故勉強するの?」と子供って聞いてくると思うんですが、それに答えられる人って意外に少ないんですよね。
これって、自分で考えた答えが正解であり、私が正解ではないんです。
つまり、どう子供に伝えるかをきちっと答えてあげて欲しいだけなんです。
だから、人の意見も参考にしたいけど、答えてもらえない。
で、じゃ自分はどうなん?って聞かれて答えると批判ばかりしたがる。
特に過去、ネットの某巨大掲示板の教育で一時期話したけど、ただ評論したい人の集まりで参考意見が聞けなかった。
2chではないので、あしからず^^;;。

では私は数学は何の役に立つのか?
学生の頃から考えていました。
おかしい? おかしいかな? おかしいか・・・。
確か高校くらいかな?

数学って何に役立つのか疑問でした。
というのも、自分が数学好きなもので、これってこのまま勉強して何に役立つのか不思議に感じたのです。
はい、変わり者です(笑)。
自分でもそう思っていましたから^^;;。

これがなかなか見つからない答えでした。
当たり前で、学生時代に答えがみつかるなら小学生で理解できますからね^^;;。
実際に社会にでて、数年たった時にふと気がつきました。
というのも、会う人、会う人、「理系人間」と私を評します。
また、自分でも「あぁ、なんて自分は理系なんだろう」と思うこともしばしば(笑)。

そこで、いろいろな出会いから考えるに、きっと自分に数学好きと理系人間とは関連性があるのではないだろうか?
一般的に言われている理系人間と自分は言われ方、ニュアンスとでもいうのかが違うような気がしたんです。

そもそも数学の勉強における方法というのは「暗記」が一般的です。
確かにそれは有用で、かつ試験には役立ちます。
しかし、それが通用するのはせいぜい中学までで、それ以降の数学では暗記だけではできません。
では、どうすればよいのか?

1.基本規則である”決定事項”は暗記
2.決定事項を元に論理展開する「方法」のコツを覚える
3.問題の本質を見抜き、1.2.を駆使して答えを導きだす

この方法で数学を勉強すれば驚くほど成績は伸びると思います。
例えば掛け算、割り算って本来は必要がない事をご存知の人いますか?
そもそも+、-だけで整数はいいんです。
じゃ、なんで×、÷が必要になったか?
ここに歴史があり、納得すれば次回からは本質を見抜ける力がつくわけです。

答えを書いておきますが、考えてから反転させて合わせてみてください

足し算というのは、数をたしていく。
例えば 1+1=2 2+2=4 というようになっています。
この場合、足し算が一回ですからいいのですが、もっとたす場合などに不便です。
例「八百屋に買い物に行き、おさらに二つのってるりんごを5つ買いました。さてリンゴは何個?」
普通に私達は”2×5=10”としますが、どうしてこうなっているのでしょうか?
これは「2+2+2+2+2=10」と同様なんです。
つまり、同じ数の繰り返し足すのを便宜的に表すのに”×”を使います。

逆に割り算は引いて行くわけです。
例「10個のリンゴを3人で食べます。あまりはいくつでしょうか?」
普通は”10÷3=3...1”という事から1つ余りです。
これって実は「10-3-3-3=1」という意味なんです。

×も÷も便宜上の記号だったにすぎません。
しかし、これをルールとして用いないと数学の発展がなかったから”四則演算”となった。


これを元に数字がわからない場合にaやbを使って方程式になり、いろいろ数学(この場合は幾何学と代数学)が発展しました。
こういった事を次々繰り返していくと、ものごとの現象には必ず本質があり、その本質を使えば答えが見えてくることを学びます。

さらに、数学では絶対的に決まった法則が存在します。ユークリッド幾何学は5原則。
そこに待ったをかけたガウスの曲面理論など。
このあたりは人間模様があり、歴史物語としても面白いのですが、話がそれるので割愛。

つまり規則があり、それを駆使して回答を見つける。その過程で本質を見抜く。
これが数学の勉強であり、かつ、数学を学ぶ意味になります。

では、これがなぜコミュニケーションツールなのでしょうか?
人の心は記号化できませんよね?
確かに記号化できないと私も思いますし、数学好きな人でもさすがにいないと思いますが、中には数学的でない人の心が嫌いな人はいます。私ではありませんが(笑)。

そもそも日本語に限らず、言葉と言うのは約束された文字と並びがあり、お互いにそれを理解したうえで話すから相手に意思が通じます。
日本語と英語ではこの伝え方が違うから、二つの規則と文字の並び(単語も熟語も含めて)を覚えます。
よって、日本人は日本語を理解してる前提のため、共通認識にたち理解しあってるわけです。
逆に、その規則を逆手にとって、勘違いやハプニングを演出してるのがお笑いです。

ただ、言葉や文字と言うのは記号ですからある程度共通化して同じ意味で使います。
しかし、実際には同じ言葉で話しても通じる人、通じない人がいます。
ここが数学との違いです。
ならば、言葉の持ち本質ではなく、相手の思考の本質をしればより理解できると思うわけです。

私は数学を「コミュニケーションツール」と言って、決してコミュケーション上達とはいいません。
ツールは使いこなせるほど便利なものですが、使えない場合はただのゴミです。
よって、数学を勉強してツールを使いこなすために学校に行くわけです。
その使い方を学ぶ、これは成績ではなく社会性の勉強となります。

これは相手を思いやる気持ち、理解しようとする気持ち、受け入れようとする気持ちなどにも通じ、決して数学的だから人として欠けているわけではないのです。
物事の本質を見極め、相手の立場を想像し、その時に的確な判断をし、結果よい方向に進む。
そのための勉強であるのが数学だと私は考えます。

実際にこのツールを駆使して今に至る自分の人生は決して間違ってなかったと思いますし、未来を予想して、選択肢を作り、「自分で決定」してきてます。
だから後悔はほとんどありませんし、特に社会人になってからは一回だけで、ほとんどが学生時代に失敗をした事で、じゃっかん後悔しております。
まぁ、若気の至りなんですけどね^^;;。

長くなってしまいましたが、説明不足だったり、言葉足らずで理解しにくいかもしれませんが、意図を汲み取っていただければ幸いです。
そして、会話を楽しむには相手を理解してあげることが第一歩です。
それをしなくてもできる人はいますが、仕事ではそうはいきません。

以上、持論でした^^/

  1. 2008/01/08(火) 11:45:28|
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今昔、イジメ比較考

【コラム・断】ことなかれ主義の悪

この際だからあえて言う。
イジメは昔っからある!

当たり前すぎる事だけど、どうも今しかみてない人が多い。
現代がとりまく環境とか、親子のあり方とか、学校、教師、地域・・・。
確かにいろんな要素は考えてみればでてくる。

そういった中で、昔からあるからなくならないという人もいる。
では、こういう人は”あきらめろ”というのだろうか?
弱肉強食が人の理(ことわり)なのだから、問題に取り組んでも無駄だというのであろうか?

あまりに局所的な発想しかしてないような気がする。
そもそもイジメの構造は昔と違うように思う。
形を変え、姿を変え、一言「イジメ」という言葉でくくってしまう。

そもそもイジメをされてる方に、イジメはなくならないからごめん、イジメられて下さいとでもいいたいのであろうか?

私も”られる方”も”する方”もあった。
もっともする方の時は意識はなく、その相手はもとイジメっ子だ。
だから、子供の価値観で天秤にかけたら「イジメられたからイジメていい」という発想があった。
が、すぐにやめた。
相手から「お前がやってる事は俺がしてたとの変わらない」
という指摘のおかげだ。
実際にはそのものに対し、暴力はふるっておらず、一般的な罪の量というものが存在すれば、自分はやられっぱなしに近い(笑)。
けど、言われて気がついた事は、その通りであり、虚しいと感じたからだ。

よって、する方としてはほとんど経験がないに等しいが、一時期確かにあった。

じゃ、られる方という人の気持ちがわかるかといえば、昔のイジメならわかったと思うが、今のイジメの構図が違うため、正直いってわからない。

昔は価値観の違いというよりも、「中途半端な常識」から逸脱するとイジメられる。
背が異常に高く感じる、逆もそう、太ってる、話が通じないなど。
比較的明確な”見える”ものでのイジメがほとんどだった。
けど、理不尽である事に変わりはない。

で、今のイジメは現場は知らないので、私が知りえる限りの情報をまとめると、単純に価値観の共有ができないものから、価値観に乗り遅れたものというなんとも意味不明な理由を感じる。

だから、誰がイジメられ、誰がイジメてるのか子供同士でもわからなくなり、常に緊張状態を強いられているように思う。
自分が”する方”だったはずが、いつのまにか”される方”に変わり、そこから逃げたくてまた”する方”になる。

つまり、気がつけばイジメをしてるのか、されてるのか常に状況把握を求められ、信じていた友達からあっさり裏切られる。
性格や見た目ではないのだ。

そうだなぁ・・・。あえて言うなら
場の空気に支配
されてるとでも言うのだろうか?

確かに昔からあるイジメ、今もなくならないイジメ。
これらを考えて比較すると、イジメてるいわゆる「イジメっ子」はいなくなり、常に流動してしまう。
その流動が固まると、対象が決まり、激しいイジメに変質し自殺まで追い込んでしまう。

この発想は正しいかどうかはわからない。
自分が知りえた情報を整理し、いろんな方面で自己検討した結果であるので、的を射てない可能性が高い。

でも、現状認識における足がかりだと思っている。

さて、別の方面で昔と今を比べてみよう。
いじめっ子という言葉は昔は確かに存在し、そのいじめっ子の中でルールがあった。
つるまない、怪我をさせない、節度を持つというものであった。
もっともこれは私の時代よりも前であり、いじめっ子の家庭環境を加味した分析である。
実際に、いじめっ子は、他校の生徒に自分のいじめる対象がイジメに合うとなんと助けるのである。

この時代は、いじめっ子が学校や家庭での理不尽な要求のはけ口だったということである。
そして評論家は未だにこの頃の幻想を抱いてる人もいる。

私の頃は、つるむけど嫌悪を持っていた。
一人でできない情けなさは心にありつつ、それを隠す感情の高まりをイジメに向ける。
多少の暴力はあるものの、やっぱり怪我は基本的にさせない。
痣程度であり、それも頻繁ではない。
そういった節度は多少なりともあった。

では今は?
明らかに問題になるケースは節度がない。
エスカレートしすぎばかりだ。
しかし、表面化してるからであり、裏ではその一歩手前のイジメは横行してるのではないだろうか?

先ほども書いたが、いじめっ子という存在はいない。流動的なイジメは常に行われていると考えた方がいい。

これは教師がダメなだけでなく、やっぱり親の環境が大きいといわざるを得ない。
そもそも、親が子供に簡単に愚痴をこぼし、社会をぼやき、マスコミに踊らされ、”情報処理”してないのである。
だから子供は価値観を育てる事ができない。
いや、正確に言うならば”自分だけの価値観”がもてない。
誰かの情報で自分の都合で取捨選択するまでできればいい方だ。
それすら人の価値基準を借りてしまう。
だから全て他人の責任なのだ。

親・社会・マスコミ
に責任転嫁が簡単に出来てしまう状況を作り出し、与えられる簡単さに満足してしまう。
そんな親を見て育ってる子供に、伝えるべき”人間”のあり方なんて伝わらないと思う。

だから子供も楽な、もっと楽なということで、しかも悪事の意識が希薄なままの価値観を「持ってしまう」のだろう。
みんながやってるじゃんなどの言動は、この考え方が定着してると思っている。

では、どうすればよいのか?
一番簡単なのは、日本在住の人を全て集団催眠で共通の価値観を持たせる事である。
「集団で一人を攻撃するのは”悪”である」
と・・・。
出来ないけどね^^;;。

現実的にはやっぱり教育の場で、これを徹底して教える事だろう。
攻撃対象が仮に悪い場合でも”集団で”攻撃してはいけない。
これだけで随分とイジメは現象していくのではないだろうか?

今の大人が共有できない以上、次の世代に教え込む必要を感じる。
その上で現状のイジメに対し、学校も常に「存在」してるとして行動すべき事柄であろう。

おそらく、この記事ですら一面を切り取ったに過ぎないかもしれない。
的を射ていれば、少なくとも我が子にはイジメる側になって欲しくないと伝える事は可能と信じたい。
果たしてその結果やいかに!?

  1. 2007/10/11(木) 11:36:53|
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盲点の発想だった

【正論】精神科医 和田秀樹 集団犯罪の一層の厳罰化を

久し振りに衝撃的な発想の記事をみた。
自分にはまさに盲点となっていたが、なるほど言われてみればその通り。
厳罰化がいいか悪いかは、徳を持って教育するのか、法律のみで対応するのかという点がからむため、安易な決め方はできないが、早急に必要な要素として、集団だから殺意が認められないというところは改めるべき事だろう。

私のように古い価値観も未だ持ちえている者は
一人でできる事の美学
がある。

昔は集団で行動することが「情けない」というものだった。
逆に、大きな悪に立ち向かう時、一人の力は弱いけど、協力して立ち向かうのは「勇気」だった。
勧善懲悪だった昔の話である。

ただ、どんな理由であれ集団で一人をおいつめるのは「悪」であるという価値観は今は存在していないに等しい。
例えば、遅刻をした人がいると、自分のことはそっちのけで、遅刻してない人同士で「遅刻はいけない」と攻め立てるケースがあるという。
つまり”自分の正義に於いて、反するものを律したい”欲求があるという事だ。

イジメもこの延長で行われるようで、どうやら
「自分の価値観を共有できそうな人同士で集まり、それに合わない、もしくは”乗り遅れた者”を自分達の理屈で律する」
というように感じる。
最近のイジメ番組などの教授などの意見は言わないが、子供達の声を聞くたびにそう思えている。

さて、最近の傾向で私が一番危惧してるしてるのは、情報社会における子供の無防備さと、新たな価値観構築を”やらない”人が増えた点。
ちょっとこちらのやりとりをしたBLOGを見て欲しい。
「反骨」的に言いますと「女だから・・・」に疑問アリ!?

こちらはいつもお世話になっているN.MiuraさんのBLOGです。
こちらでコメントさせていただいた私のところですが、

TV、新聞、ネットは心が見えない情報という事を忘れている人が多いようです。
自分の価値観も構成できないまま大きくなり、与えられた情報を自分で消化・加工せずに「持つ」。
だからすぐに他人の責任にしてしまう。


実はこれって本当に強く感じています。
こういった事が下地にあるから

自分と共有できる人間がネットで簡単にみつかる。だったら集めて集団化しよう!

という発想がでてくる傾向があるのかもしれないと考えた。

さらにその下地を正論では述べている。
つまり学校などの狭いケースでもすでに集団化による理性を超えた悪質な行動である。

教育の根本的な目的は、子供により豊かな未来を築く土台を与えることがあるはずだが、そういった目的は今はないのだろうか?
心で会話をしてくれる教師はいなくなったのであろうか?
いつのまに私達は、過去の素晴らしい価値観を捨てたのか?
いや、これはきっと違い、過去の素晴らしくない価値観として扱われたからだろう。

多種多様な価値観を認めるには、あまりに日本人は未熟なのではないだろうか?
まだまだお上がひっぱって教育をしていく必要があるように思う。
そうしないと愛国心って”言葉”だけを教えているだけにすぎない。
言葉も大事だが、そこに心はあるのか?

こういった事を考えないと、この集団化現象は増える一方と思う。

  1. 2007/10/05(金) 11:48:07|
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